花島シーマン物語


1、千葉県につづく花島の由来

創業者、花島梧樓(はなじまごろう)の出身地は千葉県東部になります。この地域一帯は古くから花島という地名で呼ばれ、古くは南北朝時代の文献にも「花嶋」の記述を見ることができます。
709年に行基が開山したと伝えられる天福寺(花見川区花島町)には、花島観音の愛称で親しまれている観音像があり、千葉県指定文化財にも選ばれています。
千葉県に脈々とつづく花島村の一角に、花島梧樓は大正15年(昭和元年)に5人兄弟の3男として誕生しました。幼少期に父を亡くし、母親が女手ひとつで5人の子供たちを育て上げました。
母親の苦労を見て育った梧樓は、幼い頃から自立心も早く芽生えていました。

2、戦後復興と化粧品の普及

梧樓は物理学校(現東京理科大学)で学ぶさなかに、昭和18年には徴兵を余儀なくされました。理科系の知識を見込まれ、南方諸島で主にオイル燃料の研究を担当しました。
しかし終戦を迎え帰国すると、あたり一帯は焼け野原です。職もないまましばらくは生まれ故郷で過ごしました。
やがて日本は特需景気で徐々に活況を取り戻しました。昭和25年には映画「赤い靴」がヒットし、街では赤い靴をはく女性が増え、ボブヘアが流行しました。戦後復興の中で女性のおしゃれやファッションへの関心が高まりはじめたのです。
そうした中、梧樓は化粧品会社の職を得て、営業マンとして社会人の第一歩を踏み出しました。当時、歌手として人気の高かったコロムビア・ローズを起用し、化粧品のキャンペーンを行うなど手腕を発揮しました。
ところがしばらくすると勤めていた会社の社長が亡くなり、経営の悪化で倒産。梧樓は一念発起して、自ら化粧品事業を立ち上げる決意をしたのです。

3、七輪とホーローと竹棒

昭和29年、梧樓は葛飾区青戸で化粧品製造業をスタートさせました。開業当時の名称は「シーマン化粧料本舗」でした。
もともと化学の知識があり、その後は営業マンとして顧客の需要を実際の現場で見てきたことは大きな強みとなりました。
現社長花島惠子は、自宅兼研究所兼工場だった開業の当時の様子を今でも鮮明に覚えており、次のように回想します。
「父、梧樓は七輪に火を焚き、その上にホーローを置いて、化学薬品を竹の棒でかき混ぜながら、化粧品を自らの手で調合しました」
こうして製造した手作りの化粧品を妻が自転車に載せて、町中を回り歩いて販売したのです。当時この地域一帯には町工場が多く、化粧品の使い方を実演すると、女性従業員の間で瞬く間に評判となりました。
巷では「ローマの休日」の影響で《ヘップバーンスタイル》が大流行。マリリンモンローが来日したのも昭和29年のことでした。
ファッションや化粧品に渇望していた女性たちにとって、身近なシーマン化粧品はおおいに喜ばれました。

4、女性の社会進出

高度経済成長期に入った日本では、ファッションや流行への関心が高まる一方となりました。
女性の社会進出も進み、バスガールやデパートの店員が憧れの職業でした。「OL」という言葉が流行語になったのもこの時代のことです。
梧樓は従業員を増やしながらスキンケアに特化した製品の研究を重ね、独自の製法で商品化を進めていきました。
こうして東京オリンピックを1年後に控えた昭和38年、事業拡大に伴い工場の新設及び、法人化を進め、社名を現在の「株式会社花島シーマン」に改称しました。
「シーマン」の名称の由来は、「She」(彼女)と「Man」(男性)を組み合わせた造語によるもので、《これからの化粧品は女性にも男性にも必要なもの》というメッセージを込めたものでした。

5、最大のピンチと決断

昭和40年代前半、高度成長期の真っ只中で、当時城東エリアを中心に店舗数を拡大していたスーパーマーケットと弊社は業務提携を結んでいました。同じ城東エリアの経営者同士として意気投合し、両社の信頼関係は深まっていきました。そのスーパーは最盛期には都内に80店舗を数えるまでにチェーン展開を繰り広げ、弊社の製品も比例して生産量を伸ばしていったのです。
ところが業務拡大と多角経営への投資の歯車が合わなくなったことから、そのスーパーマーケットは事実上の経営売却となり、それを機に業務提携も終わりを告げることになったのです。
製造ラインは止まり、各店舗に派遣していた美容部員は活躍の場を失うなど、弊社の打撃も大きく、先行きが見えなくなりました。
この最大のピンチに梧樓は決断しました。これまでの自社ブランドによる製造販売戦略から、OEMへと事業転換をしたのです。幸いにも大手美容学校法人をはじめとする美容や健康関連の企業様との業務提携が実現し、そこに新たな活路を見出すことができたのです。

6、人情味ある堅実経営

OEMに事業転換した後、梧樓の会社経営は堅実そのものでした。昭和57年には第2工場を、59年には第3工場を設立しました。
その一方で、当時は物品税が廃止され消費税が導入される時期だったこともあり、葛飾間税会会長として、城東地区一帯の税知識の啓蒙活動にも貢献しました。そうしたことから昭和60年に国税庁長官から、翌61年には大蔵大臣から優良申告法人として表彰され、昭和63年には公衆の利益に寄与した者に授与される藍綬褒賞を賜ることができました。
その後もバブル景気に躍らされることなく堅実経営は続き、平成2年には茨城県に鹿島工場を設立しました。
工場に勤めるスタッフからは「梧樓さん、梧樓さん」と親しまれ、人情味のある触れ合いを大切にしました。

7、創業者からのメッセージ

創業から40年にわたりこつこつと積み上げてきた功績が認められ、平成8年に梧樓は勲五等雙光旭日章を賜ることができました。70歳、古希の節目にあたる年のことでした。
そして翌9年には現在の本社ビルが新築落成を迎えます。しかし、新しい社屋が完成しいよいよこれからという矢先、梧樓は病に倒れました。
当時、会社の経理全般を見ていた花島惠子は、経営を支えながら父の介護にも粉骨砕身の毎日を送りました。おそよ10年間にわたる介護生活の末、花島梧樓は82年の生涯に幕を降ろしました。
「得意の時に油断するな。失意の時に落胆するな」
それは梧樓が最後に残した娘へのメッセージ。今も現社長花島惠子の心の励みとなっています。

8、そして、未来へ

いま、世界はグローバル化の波を越え、次のステージへと向かいはじめます。肌の色の違いで人々が争う時代は終わりを告げ、化粧品の果たす役割も変わっていくかもしれません。
天然由来の、肌に優しい化粧品が求められている時代の中で、花島シーマンはお客様のニーズにお答えし続ける企業として、これからもより良い製品とサービスを提供してまいります。
今も社長室には創業者花島梧樓の写真が掛けられ、化粧品業界の未来を見守っています。


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